私の3.11 内陸部で私が経験したこと

雑記
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東北の内陸部に暮らしています。

10年前の3月11日、大きな揺れを経験しました。

あの当時の記録が過去のブログに残っていましたので転載します。


2011.03.22 Tuesday

外出先で、下の子2人を抱きしめながらただただおさまるのを待つしかなかった激しい揺れの地震。

急いで長男を迎えに小学校へ行った際、ようやく得た情報は「震度7」という情報のみ。震源地がどこかもわからない。

子ども達を乗せて家に向かう途中、車内のラジオからの情報は、

「津波が橋の上の車を乗り越えています!!」

という緊迫した放送。

怖かった。
けれど、あの時の私は、津波があれほどまでに大きなものだったとは、ラジオからは想像すらできなかった。

 家の中はメチャクチャだった。

ダイニングの100㎏以上はある栃の木のテーブルも激しく動いた形跡があり、テーブルの角が壁を削るようにして止まった痕があった。

3匹の猫達は怯え、老猫のニャンコは逃げようとしていたのだろうか、浴室でびしょ濡れになっていたのを猫を心配して探していた長男が見つけた。

停電になっていたので、テレビやネットは使えない。

ラジオは車にしかなかったので、時々聞きに車に行ったが全体的な状況は伝わってこない。

今、世の中がどうなっているのかがわからない。

余震に震えながら朝を待ち、全国版の新聞は届かず地元新聞のみ届く。

載っていた写真は被災後の街の一部。
商店街に商店の建物が並び、ところどころに瓦礫。そこに数人が行きかっている写真。
情報の点と点がつながらず、まだ状況が把握できなかった。

身内からの電話で、「知り合いのお嫁さんが、釜石にいるんだけど、釜石の町が無くなったって!」と聞く。
その言葉からその様子が浮かんでこない。
自分の知っている天災被害の映像の中から、その言葉にふさわしいものを頭の中で探ってみるのだけれど、「町が無くなった」という言葉に当てはまるものが出てこない。
頭の中に浮かんでいたのは、大雨の床下浸水に似た状況。

ラジオから「壊滅状態」という言葉が出ていたが、そういった言葉や新聞の文章から私が想像していたものは決してそこまで大きなものではなかった。

ようやく私が現実を知ったのは、地震から3日目のことだった。

埼玉から帰ってこられない夫との連絡手段である電話が使えなくなり、兄から得た「市役所で携帯の充電ができる」という情報を頼りに、市役所に行った。
その市役所にて見た全国版の新聞で、上空から撮影された津波のカラー写真を目にし、絶句する。

その後、地域の中でも比較的早い段階で停電が解消された我が家だったので、友人たちに携帯の充電・テレビ情報をうちで利用してと呼び掛け、数名がうちに来る。

初めて映像で津波の状況を目にした友人が言葉を失い、共に涙する。

ある友人からチェーンメールが来た旨相談を受ける。
彼女は、まだ家が停電中のため情報があまり入ってきていない状況だった。
情報が入らない、状況がわからない被災地での不安をあおるチェーンメールは恐怖を倍増させる凶器でしかない。
チェーンメールの発端はもしかして善意からきたものもあるかもしれないけれど、あの状況下では正しい判断は被災者にはできない。
沿岸部の人たちに、間違ってもこのような不安をあおるメールが届いていないようにと友人と話しながら涙が出てきた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ネットにつながるようになってから、「今、私にできることをやろう!」と被災者に向けて何か役立つことを発信しようと意気込んでみたものの、知人・友人との連絡(安否確認)と情報収集で時が過ぎている現状です。

宮城の沿岸部に住んでいた叔父が無事だったと身内を通して連絡がありました。
その後、叔父と連絡はとれていません。避難所にいるのかもしれません。

父が古くからお世話になっていた釜石の方々が無事だったことを、先ほどネットを使って確認できました。
父の知り合いのご高齢の方もそのことが不安で寝込んでおられるようでしたので、明日連絡しようと思っています。

でも、まだ安否がわからない方もいます。。。
私の周りには、親兄弟が沿岸部という人達もいます。

いまだに、何度も何度も行ったあの地域が、壊滅状態だなんて信じることができません。信じたくありません。なにか、悪い夢を見ているのではないか、夢であってほしい・・・

あの町にもこの町にもあそこにもそこにも・・・・。思い出がたくさんありすぎて、その思い出の中には確実に地域の人たちがいて、たしかに同じ時間、場所を共有していました。

短いけれど言葉を交わした人たち。共に遊んだ子ども達。親切にしてくださった方々。

今は関東で暮らす姉家族も、かつて陸前高田で数年暮らし、私にとっても思い出深い場所です。

海を見に気仙沼には何度も何度も何度も・・・行きました。
宮古にも、田老にも、仙台にも、女川にも、石巻にも、南三陸町にも、釜石にも・・・思い出がいっぱいあります。

テレビは、もうだいぶ普通の番組になっているようだけれど、私の中ではあの時から時が止まっています。

ずっと考えてしまうのは、津波のあった地域のことばかり。

あんなに日常だった、本を読むという気持ちの転換もできません。

私達ががんばって沿岸部の復興に協力しよう!という気持ちは間違いなくあるのだけれど、今の私は気持ちが上がったり下がったりして、体も心もヘトヘトになってしまって自分の無力さに落ち込みます。

私は沿岸の人たちに元気をあげなきゃいけないところにいるのに、何もできずに自分の気持ちさえしっかり立たせることすらできずにいます。

でも、必ず復興のために、私にできることを精一杯したいと思っています。


2011.06.12 Sunday

あの日から、3ヶ月が経ちました。

私の暮らす町はだいぶ日常を取り戻してきている一方で、隣接する沿岸被災地のまだまだ過酷な現実と常に隣り合わせた日常の中にいます。

いつもなら「3ヶ月」という時間はあっという間に過ぎていく時間だけれど、今回ばかりはとても長く、長く感じられました。

3月11日、あの日、私は下の子2人を連れて公民館で育児サークルの最中でした。

突然起きた揺れ。
すぐに、その揺れの大きさが尋常ではないことがわかり、体育館のステージ脇に隠れて遊んでいた子どもたちを引っ張りだして外に皆で逃げました。
周りに倒れてくるもの、落下するものはないか確認しながら、建物から離れたところで大きな揺れに耐え続けました。
1歳と4歳の我が子を守りながら、サークルの代表という立場もあるからとにかく冷静に判断しなければという思いが、なんとか私の気持ちを強く持たせていました。

だけど目に映る周りのあらゆるものが、見たこともない恐ろしい動きをしていました。
建物も車も、地面も・・・
大丈夫、大丈夫・・と心の中で思いながらも、駐車場で大きく動いている自分のクルマ、割れそうな勢いの建物のガラス、倒れてきそうなポール、子どもの手をひき恐怖でしゃがみ込んでしまった仲間・・・。
2人の子どもを両手に抱え、そばにいた年配の方を背中で支えていた状態で声をかけ合うことしかできませんでした。

小さな子どもたちはかなりの恐怖だったと思います。
皆、ママにしがみつき、小さな声で「こわい」というのが精いっぱいで、静かに静かに、地震がおさまるのを待っていました。

3年前、岩手宮城内陸地震で直下型の地震を経験しました。
あの時は、家がまるで船が大きく揺れるような動きをし、直下型であそこまでの揺れを体験したのだから、もうあれ以上に強い揺れはないだろうと思っていたのですが、3.11の地震はそれ以上でした。

すぐ隣町が最大震度7であったことを知るのはそれから少したってのことでした。

時間を確認すると、小学校の下校時間を過ぎていました。
その日は、短縮授業で2時45分下校だったのです。
急遽サークルを撤収させ、血の気が引く思いで小学校へと車を走らせました。

道路には建物から落ちたと思われる何かわからない破片が飛び散っている状態。
運転しながら下校しているはずの子ども達の姿を探しました。

偶然が重なり、あの時間、帰りの会などで全学年全生徒が学校内にいて、全員怪我もなかったそうでした。

体育館に集められた子ども達。
不安そうな表情、涙を浮かべている子・・・どんなに怖かったことでしょう。
地震があった時は、柱などにしがみついて泣き叫んでいた子もいたそうです。
体育館で親が来るのを不安そうに待っていた子ども達の表情が今も忘れることができません。

小学校へ駆けつけたお母さん達から、地震後の市街地情報が入ってきました。

建物等の破損、いたるところにガラスが飛び散り、信号も動かず大通りは警察の手信号。
「とにかく、めちゃめちゃになってる!」の言葉に背筋が凍りました。

一体何があったの?何が起こってるの?

停電。固定電話も繋がらない。
そういった状態では、学校すら満足な情報が入っていないのです。
先生が父兄達から外の状況を聞いて把握するしかない状態でした。

子ども達を乗せて家へ帰る車中、ラジオから突然聞こえてきた、

「津波が、橋の上の車を乗り越えています!」

という緊迫した放送。

それはあまりにも現実離れしすぎていて、容易に想像することはできませんでした。

私がやっとのとで思い浮かべた情景は、「海沿いにある橋の上に1台の車」が津波にさらわれてしまう様子でした。
その情景を想像しながら、その車の人は逃げられただろうか、大変なことが起きてしまった・・・と、ここで初めて涙が出ました。
まさかあそこまで甚大な被害になっているとは想像すらできず、私が想像していた何万倍も大変なことになっているとも知らず・・・。

自宅に戻ると家の中はあらゆるものが落下し、重量のある家具が大きく動いていました。

ガラスなどの破片があるかもしれないので、外に避難していた高齢の両親と子ども達を車に乗せ、靴のまま家の中に上がりました。

私が家族を守らなきゃいけない。

猫達の安否を確認。
水道が出るかどうかを確認。止まる可能性があるので水を汲む。
3月といえどもまだまだ寒い時期だったので、防寒のための毛布を車に積む。
停電のため真っ暗になる夜に備え、2階から子ども達の衣類を持ってきて子どもごとにバッグを分けてすぐ取り出せるところへ。
大きな余震の際に逃げやすいよう、通路の邪魔になるもの、動きそうなものは庭に出して安全確保。(テーブル、鉢、棚など)
ろうそくなどをわかるところに出してひとまとめにしておく。
すぐ食べられる食糧などをクーラーボックスにひとまとめにする。

刻一刻と近づく夕暮れ。
長男と母にはジャーに残っていたご飯で塩おにぎりを作ってもらいました。

限られた時間の中では、食べること、飲むこと、寝る場所、逃げる通路の確保が最優先で、ぐちゃぐちゃになったキッチンや2階などの片付けは後回しでした。

近所の中学生は、家族の食糧確保のために夕方、コンビニに自転車ででかけたそうです。
いつまでも帰らず、心配するおばあさん。

ほどなく無事戻ってきましたが、停電のコンビニは行列となり、順番が回ってきて中に入ったもののすでに食べられるものは何一つ売っていなかったといいます。

常に冷静になるよう心がけていたけれど、いつもなら思いつくようなことができなかったりもしました。

ラジオも、子ども達が夫と自作したものが子ども部屋にあったのですが、それもすっかり忘れ、あの時は車のラジオしか思いつきませんでした。
よく考えれば、携帯でツイッターを使って即座に情報収集することもできたのでしょうが、ごくたまにパソコンでしかツイッターをしていなかったこともあったのですが、「ツイッターを携帯で」ということすら思いつきませんでした。

子ども達も車の中で長くじっとしていられなかったため、家の中に移動。

家の中で作業しながら、時々車に行ってラジオを聞く、を繰り返す。

時々しかラジオを聞いていなかったからでしょうか。
ラジオからは、全体的な様子が聞こえてきません。
聞こえてくるのは、避難所の情報。

「○○町・・・△△避難所・・・」
延々と続く、避難所の名称。

あの時は、それが、津波被害を受けた方々を誘導するための情報とすら私にはわかっていませんでした。

沿岸側の隣町で甚大な被害が起きていたこと。
すぐそばなのに私達は知らずにいたのです。
全国であんなに大騒ぎになっていたことも知らずにいました。

あの日、夫は埼玉へ出張中でした。

電車の中で地震が起き、緊急停車。

宮城沖が震源であることを知り、電車を降りてすぐに近くのお蕎麦屋さんに駆け込んでテレビを見せてもらったそうです。
夫が震源地に近い地域から来た人間と知り、お店の方やそこにいらっしゃった方が心配してくださり、ご好意で移動がしやすい隣町まで車に乗せて連れていってもらったそうです。

しかし関東でも多くの方がそうだったように、夫もまた帰宅困難者の一人となりました。

夫の携帯も私の携帯も同居の両親の携帯も、地震後間もなく充電が切れてしまいました。
が、夫が仕事用にもう一台の携帯を持ち歩いていたこと、我が家の固定電話が2回線あり(二世帯のため)、私達世帯の回線は不通だったけれど、両親世帯の回線はアナログだったこともあってか回線が使え、なんとかその日のうちに連絡を取り合うことができました。(回線が混雑していたため、なかなか繋がらない状況でした)

その後、夫から関東で報道されている地震の情報の一部を聞きましたが、夫も帰宅困難者となっていたため、情報もまだ十分ではありませんでした。

断片的な情報。
映像や写真のない「言葉だけ」の情報は、今回のような甚大すぎる被害のもとでは、想像と現実があまりにも食い違いすぎました。

「壊滅的」という言葉があそこまですさまじいものとは全く想像できていなかった。

「街が水に浸かった」という言葉に、足元に水がたまっている状況しか思い浮かべることしかできなかった。

続く余震。

電気もつかなければ、暖房もつけられない。

防寒着を着て、寒さに震えながら、世が明けるのを待つしかなかった、私の3月11日の夜でした。


2011.6.12 (未公開分)

暖房のない部屋でコートを着たまま布団にもぐり、寒さと余震に震えていた夜。

ずっと悩んでいました 自分自身の心に 自分がどの方向を見ているのかさっぱりわからなくなってしまっていました

自分達が経験した地震。 夫の会社も損壊が激しく、一時は操業も厳しい状態にありました 。自宅は大きな被害こそなかったものの、一部損壊判定。

できることなら困っている方に使ってもらいたいと思っていた旧宅(去年まで住んでいた家)は、二回目の震度6で柱も床も基礎も駄目になってしまってそれも叶わぬ結果となりました

情報も、電気も水道も、食べ物も生活用品も、ガスも灯油もガソリンも、いろいろなものが私たちの前から消えていきました 文明社会から一気に何もない時代に突き落とされたような経験でした

でもそれ以上に、沿岸被災地の状況を思うとつらかった。 岩手県内陸南部に暮らす皆が、電気なくても、水出なくても、ガス使えなくても、私達はまだまだ恵まれてるほうだよね、沿岸の人達思えば申し訳ないよね、と会う人会う人皆があの頃言っていました。

応援したくても、内陸でさえ物が手に入らない。 東北全域でガソリンがなくなり、公用車ですら身動きできない状況。 全国から支援物資が届いているものの、沿岸に届けることができないという現実。

なんで、すぐそばにいるのに何もしてあげられないんだろう!毎日泣くことしかできませんでした

夫の職場であらゆる方面からの協力を受け、支援物資届け炊き出しすると聞き、近隣のママ友たちも協力してくれて私たちで集めた支援物資を届けてもらいました

でも当たり前の生活ができなかったこと以上に、「心」の問題のほうが重かった

それは今も癒えません 末の子の恐怖心もまだ続いていて、今も地震あるたび泣き叫んでしまっています

自分だけの出来事なら、自分の中で消化して考え方を切り替えて自分の人生の肥やしになった!くらいの切り替えで立ち直ることはできると思うのです、これまでもそうしてきたように
でも、この震災は自分以外の多くの人たちを傷つけ苦しめているから、自分の無力さがつらいのです

我が地域は沿岸被災地と隣接しているため、スーパーで病院で、被災地の方々と共にいる距離感にあります。
報道はされていない辛すぎる現実を聞くこともあります。 テレビで映像として目に飛び込んできたあの状況も辛すぎたけれど、実際にその場にいた人の「心」を介して表現された「言葉」は重く、本当に苦しいです。

私達夫婦に近しい友人も、津波被害、原発、避難、家族のこと…幾多の苦境の中にいます。 会ったとき、励ましの言葉が出てきませんでした。ただただ、話を聞くことしかできませんでした。 私達が元気をあげなきゃいけないのに、逆に友人から元気をもらってしまいました。

地震と津波の被害。 それはあまりに広範囲すぎました。 我が家近くの方々も、地震で家屋が壊れた方々が多数いらっしゃいます。 身内も、重病人を抱えながら、地震の被害により自宅が崩れ住まうことができなくなってしまいました(未公開分下書きココまで)




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